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第一章
~九州へのこだわり~ |
ラグビーとバンドの高校時代 |
河野 |
佐賀での生活と、当時を振り返っての印象は? |
古賀 |
高校時代はラグビーとバンド(フュージョン)に明け暮れました。
角さんって武雄高校だったよね。(*取材にはSAGA藩の角も同席しました。)
武雄高校にはラグビーの試合で行きましたよ。
高校の成績は450人中445番目ぐらいだったかな。(笑)
今思えば自由な校風でしたね。田舎の公立って感じで。
もう3、4年佐賀に帰ってないけど、
自由でのんびりしてて、干潟のイメージがありますね。
そう、「潟」のふんいきは思い出します。
佐賀出身って新しい感じですよね。結構ウケも狙えるし。
うちの会社にも知ってる限り2人いますよ。 |
河野 |
噴火直後の雲仙普賢岳を撮影するなど、九州は意識されてますか? |
古賀 |
現場に行くのが好きで、九州にはこだわりがあります。
普賢岳は長崎、オウム事件では熊本に行きました。
普賢岳は7年間かけて東京と長崎を40回以上往復して撮影しました。
当時は週刊誌の記者だったので、休みの土、日曜日に行ってました。
立ち入り禁止区域に入って警察から書類送検(不起訴)されたこともあります。 |
河野 |
そこまでして伝えようと思ったことは何ですか? |
古賀 |
普賢岳には原爆の爆心地のような真っ白な世界がありました。
多くの人が亡くなった直後という恐怖を通り越して、神秘的な世界に惹かれてしまいました。生き物の「音」がしない世界だったんです。動物がいないんです。
この世界がどう変わっていくのを見たいと思いました。
その後、ダムができたりしたが撮るべきものは撮りました。
出身の佐賀に近く、取材で(佐賀弁なので)言葉が通じて親近感もありましたね。
自分の生まれたところの言葉がしゃべれるってことで、色んなヒトの協力も得ることができ、
親しみを(東京からきた記者に比べ)もっていただいてんだと思います。
「忘れていた故郷」ですね。
また、そのときにフランス人の記者が亡くなり、そのご両親にはその当時の様子をお知らせしたかったので写真を(フランスへの留学時)もって行きました。
非常に喜んでいただいたことを思い出します。 |